レスピーギ生誕144年 と わが恩師

確か3月31日オーケストラの日でも紹介しましたが、7月9日はイタリアの作曲家オットリーノ・レスピーギ(1879~1936)の誕生日です。1879年生まれですから生きていれば144歳なわけです。

とにかくレスピーギはイタリアのボローニャに生まれ、幼少のころからヴァイオリンに親しみ郷里の音楽学校を卒業後はロシアのサンクトペテルブルク音楽院でヴィオラ奏者として活動し、その傍らで管弦楽法の大家リムスキー=コルサコフ(1844~1908)に師事、晩年はローマのサンタチェチーリア音楽院の学長に就任、そのころに書かれたローマ三部作(ローマの噴水 ローマの松 ローマの祭り)とリュートのための古風な舞曲とアリアで知られています。

どことなく今は亡き中学時代の吹奏楽部顧問の先生と似ていますね。恩師も生前一度も言いませんでしたがレスピーギが最もお好きだったようです。

ぼくの母は先生は面と向かってではありませんがオスマン・サンコンさんに似ていると言っていました。ならレスピーギもサンコン顔ですね。レスピーギ、サンコン、先生まさに3コンなわけです。
自己紹介では趣味と性格が書かれていました。といっても釣り、パチンコ、たばこというのは健全な趣味とは言い難いですが、そして気の短い性格です(当たってます)。血液型はB。確かにその通りで全体的には明るかったと思います。ただ激しい気性が垣間見えました。そして一人称は先生か私でした。ほかに覚えているものは。

いつまでかかるんじゃわりゃ、たった3曲じゃが(次の曲の楽譜の入れ替え)

サンハイとかいっせいのーでとか、演奏の合図はいろいろあるがこの先生はノッ!(一瞬ためる)だった。

さっき朝日中学(現 七尾中学校)怒鳴ってきた

テューバわりゃ壊しやか!(伴奏には旋律以上に厳しかった旋律<伴奏<戦慄)

フルートが右肩下がりになってくると無理やり元に戻した

ここは便宜上2つ振りでいきます

はい、ニュートンのN(練習番号Nから演奏する場合の合図)
生徒の自主性も育ってきたので(新聞記事に書かれたことば、もちろん合奏中には一切なし)

はいトランペット、鳴らんペット、マイペット(Tpパートへのダメ出し)

貸してみぃ(ぼくのトランペットを取り上げ)吹いてみるがプーとかスカとかしか鳴らない、ただピストンを押すと(うっかりバルブオイルを塗り忘れ)元の状態に戻らずゲンコツを食らう(ただそれ以上に痛かったことは歌口がヤニ臭かった)

どうしてもペッペペペペペに聴こえるヤンパパパンパンパンや(黒板に描くこともあった)!

指揮台の傍らにキーボードがありC7(シーセブンス)のコードを鳴らすこともあった。小長谷宗一先生はこういう響きが好きですとか言っていた・・・ファン?

生徒たちが40分かかるチューニングをたった5分で合わせることも(驚異の聴覚の持ち主)
そのせいかトゥッテイ(全合奏)でもホルンが揃っていなかったり出てなかったりした場合、ホルン入ってこんかいわりゃ!聴こえんと思ったら大間違いねんぞ!と大激怒

先生は行きたかないげんぞ!わりゃっちゃで決め!(コンクール本番直前夜遅くの練習中 もちろん出場した)

あんまりうまくないですね(地元の吹奏楽団で團伊玖磨さんの祝典行進曲を一通り演奏してからのひとこと 先生は一切指揮をせず楽団員の周りを歩いてまわるだけだった)

メロディラインへの要求はマルカート(はっきりと)奏法とレガート奏法(なめらかに)が多かった。

清掃中のBGMはなぜかタイケの旧友(行進曲)だったがそのテンポに合わせて歩いていた。

思い出したらキリがありません。それにしても七尾弁、それ以上にわりゃとかわりゃっちゃという独特の呼びかけ、そして全体的に罵詈雑言ですみませんが。声が聴こえました。

そして吹奏楽部の先生はもう一人いました。

右の似顔絵はおそらく美術の時間に描いたものだと思います。この先生は主に合奏を指導するよりも各パートの指導と監督を任されていたまだ若い副顧問の先生だったと思います。趣味は読書と音楽鑑賞、性格は忘れましたが好きな言葉は克己。先ほどの先生と真逆ですね。そして自身もトランペットパートでした。しかしある日曜日の午前中、先ほどの顧問の先生のいない時に合奏を指揮しました。曲は行進曲「希望」(團伊玖磨作曲)でした。しかし途中から顧問の先生が現れ、無言で指揮棒を取り上げ、「君はまだ若いと言い」指揮台から下ろされた先生はずっとパイプ椅子に腰かけたままでした。この光景は今でもショックでした。しかしこれまた忘れもしない翌年の全日コンクールの県大会でその若い先生は課題曲と自由曲を指揮されたのです。課題曲は忘れましたが、自由曲は変拍子と複雑なリズムで構成された難曲で知られる交響的舞曲(ラフマニノフ作曲)でした。そして結果は確か金・銀・銅で評価されたと思いますが、銀でした。しかしなぜか悔しさの雰囲気はなく帰りのバスの中はカラオケ状態でした。おそらく顧問の先生は若い先生の腕前を試したのだと思いますが、その先生が「お前らっちゃ本当は泣いとらんとだめねんぞ(七尾弁)」と叫びつつも全体的には容認でした。

言うまでもなくぼくの名前は にしだで普通アクセントは に に付きますが し に付く場合もあります。ただどちらの先生もそのどちらでもなく に し だ(徐々に音程が上がる不思議なイントネーション)くんと言われました。
副顧問の先生は数年前よく当店にワインを買いに来られました。残念ながら顧問の先生は20年以上前に不慮の事故で亡くなりましたが、教え子の指導する中学校が全国大会に行くなど優れた実績を残されました。涙が出てきました。そしてなによりも偉大なる指揮者でした。

 

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