生きている事、生きていく事とは誠に面白いものです。
私マダム櫻子は只今67歳(平成30年現在)
マダム櫻子としての道のりもまた面白く実に様々な方々との出会いがあり、その時時で一番大切で必要であったなぁ~と思われる事々を学ばせていただきました。
出会えたすべての方々に感謝の気持ちでいっぱいです。
マダム櫻子の誕生秘話
普通に結婚して、親になり、面食らいながら思い通りにならない怪獣のような我が子達との日々の暮らし、地道な時間の積み重ねの中で、三食昼寝付きを満喫していました。
まだロシアがソビエトと呼ばれ決して裕福には見えないが素朴で実直そうで心温かなソビエトの船員さんたちが材木を積んで日本海の港を転々と移動し、七尾にも年に数回寄港。当店にもお買い物に寄られ小銭を出し合って、タカラの35度の焼酎の小瓶を数人で美味しそうに飲んで誰それにカンパーイと誠に楽しそうで。時にフルタのフーセンガムを買い占め、クリスマス時にはカラフルに飾った菓子入りの長靴を大事そうに買って、我が子へのお土産を用意していました。また時にはソビエトのチョコレートを私にプレゼントしてくれたりもして・・・決してデリシャスではなかったのですが…
そんな中で片言の英語を話す船員さんからこんにちは!ありがとう!さようなら!と教えてもらいついでに名前を言い合ったところ数カ月後にかの船員さんが店に入ってくるなり、「マダム・サク~ラ(サクラコは難しかったのね)」と連呼。
その時から私マダム櫻子となりました。33歳のときでしたね。マダム櫻子誕生秘話です。アリョーシャさん有難うね。
おそまつなワイン事情の開発
七尾に限らず30数年前の能登は、ワイン未開発の地。問屋さんも小売店もワインの何たるかを知る人は皆無。ワインビジネスの最前線のあまりのレベルの低さに何とかせにゃならんと、問屋主催・輸入代理店主催の「そもワインとは・・・」の啓蒙活動としての講習会が年に数回開かれ、西田酒店の一番役立たずで、一番暇な人間であった嫁の私に白羽の矢があたり、片っ端から行ってこいと送り出されたわけです。
根が真面目なものだから、一宿一飯の恩義それなりに聞いて飲んで、ほろ酔い気分で帰宅しながらも一つでも頭に入りなるほど!と思ったことは必ず実行。最低最悪の環境から少しずつ確実にワイン売り場を変化させても来ました。
ワイン講習会の会場が金沢のホテルであったりしますと、一日がかりのお出かけとなり、午前10時~講義(朝寝)ワイン付きのフレンチのランチ午後の講義(昼寝)午後4時には終了。電車に乗るまでのわずかな自由時間にデパート巡り(お惣菜買いまくり)…あれは楽しかった!しっかりお土産のワインももらい最高の息抜きでありました。
ソムリエバッヂが欲しい!
そんなこんなで与えられた知識をつないでいくとワインを知ることは、世界史・地理を理解することとおぼろげに見えてきて与えられた知識にこれまで呼んできた小説、そのたをもかみ合わせ、歴史上の事象の点と点をワインとぶどうを1本の軸につないでみると、あたかも推理小説の如く大きな時代の変化を感じるようになり、面白いったらあしゃしないではありませんか。
嫁の道楽と言われようが中途半端に終わらせたくないので姑に頼み込んでメルシャンのワインコム、一年の通信講座を受けワインの基礎づくりを開始。この講座には半年に1回のスクーリングがあり、これまた金沢のホテルで桑山先生(私がはじめてお会いした本物のソムリエさん)の無駄がなく、華麗にして上品な動きの数々と黒服に光る金色のソムリエバッヂに魅了されソムリエの動きは無理でもあの光るバッヂは欲しい!そうやってゲットする!?!
ソムリエ資格呼称試験を受験。結果は…
うかつな事に2回目のスクーリングのと桑山先生が発せられた「あなた方も受けるんでしょ。しっかりおやりなさい!」の言葉でソムリエ協会の存在とソムリエ・ワインアドバイザー資格呼称試験、これに合格したものだけが例の金バッヂを手にすることができるとわかり、私も挑戦しようと、本格的にワインの受験勉強を始めたのが40歳のとき。
手探りで、ソムリエ協会・試験etcの情報を手繰り寄せ、翌年1992年に受験。この頃は講習会・受験会場は東京・大阪(北海道、九州もあったかも記憶なしですが)のどちらか。大阪を選び何とかなる野郎のちゃらい根性で一次試験に。当日は長男(中学一年)の運動会のためお弁当を作って朝一番のサンダーバードで大阪入り。十分間に合うはずが湖西線強風のため米原経由。大阪着時間は未定。で、米原から新幹線で新大阪下車。タクシーのおじさまに「もうすぐ1年1回の試験が始まるんです。超特急でお願い~~~~」大阪の運転手さんは男気ありました。「ほら大変や!ほな任しとき、裏道すっ飛ばしたる!」で本当に最短で会場につき、事前に遅れることを新幹線の中から連絡していたので玄関には大阪のソムリエさんが迎えに出ていてくれ、何のムダもなく会場の私の席まで案内され、不安を取り除き、激励され、心からありがたく思いました。
私は無事に受験でき、チャラい勉強の結果が見事に出て、100問中、1問1点70点以上合格。が、同ひいき目にみても3~5点足りない。やっぱり最低でもボルドー・オー・メドック格付け60シャトーの名前と村名を覚えんとアカン!と納得。
見事に不合格!ついでに私の隣のオジサマ。ほぼ私の答えをカンニングしておられましたが、一緒におっこったんだよね~残念。
帰りの電車から見える景色(朝はテキストしか見えていないので窓外は知らん)は、大型台風19号の惨状がひどくグタグタになっていた私の心の内とピタリと重なり、苦しく気の思い忘れられない風景となりました。この時から資格試験には前泊で望むことを決め、もう一度挑戦する許可をもらい(来年ダメやったら諦めなさいの条件付き。背水の陣とはこのこった)翌日から私の1年が始まりました。
ソムリエ資格呼称試験、再挑戦
二次試験へ挑む
ブラインド・テイスティングの前に口頭試問があり、問題をいくつか口頭でのべられ、答えを書いていく。なまじ勉強しちゃったもんだからわかっていることはっきりこれだゾとは書けても何をどうあがいてもあのページの上から三行目なのに出てこん!ことがいくつかあり、私の手の動きは止まったまま。
これも全て終わって答案用紙を回収していたとき全くピント外れのことばかり書いていた人のなんと多かったことか。白紙より何か知っていること書いただけ。何とも七尾の田舎者の私が少々まし!と思えた瞬間ではありました。
で、めでたく合格。私のワイン勉強の1年はめでたく終了。大阪駅までのタクシーの運転手さんに一浪でたった今合格した!と顔中口にして話したら「ほんまめでたいことやなぁ~、ええ人乗せられて俺もうれしいわ。メーターここで止めたる。お祝いや」本当大阪のタクシーの皆様。お世話なりました。
大阪の街。大好きです。1993年秋のことでした。