プロコフィエフ生誕132年

4月23日はプロコフィエフの誕生日でした。というわけで先日、あるプレゼン用に書いたものを一部割愛してお送りいたします。

5分でわかるプロコフィエフ年表
ロシア音楽界のプレイボーイ 放蕩息子
1891~1953
セルゲイ・プロコフィエフ(うさぎ年 一白水星)身長190cm
人生も音楽も飛び跳ねていた

1891年 4月23日 ドネツク州ソンツォフカ村(ウクライナ)生まれ
裕福な家庭
父親が不動産業 母親がピアニスト
母親の弾くベートーヴェン(1770~1827)やショパン(1810~1849)のピアノ曲を聴いて育つ。毎年モスクワを訪問。

4歳でピアノ曲、9歳でオペラを作曲(このくだり、ザルツブルクの作曲家ですね)。その神童ぶりからアンファン・テリブル(恐るべき子供)と称される。1902年モスクワでモスクワ音楽院教授のタネーエフ(1856~1915)に出会い。リャードフ(1855~1914)やグリエール(1875~1956)にも出会い、ペテルブルク音楽院学長グラズノフ(1865~1936)のすすめで音楽院に入学。この時14歳。

ペテルブルク音楽院教授リムスキー=コルサコフ(1844~1908)から管弦楽法の手ほどきを受けたりピアノを弾いたり歌ったりしたが、その保守的な教育になじめずに次第にリムスキー一派とは反発。しかし結果的に作曲科、ピアノ科、最後に友人のアサフィエフ(1884~1949)やミャスコフスキー(1881~1950)のすすめで指揮科も卒業。その時の教官はチェレプニン(1873~1945)。
ちなみに卒業作品はピアノ協奏曲第1番変ニ長調作品10。ほかにこのころに書かれた作品はスキタイ組曲作品20、そしてハイドン(1732~1809)が生きていたらで有名な古典交響曲(交響曲第1番)ニ長調作品25がある。ただスキタイ組曲と古典交響曲のギャップはとてつもない違いである。
← ディアギレフ
初めてのバレエ音楽、「アラとロリー」は1914年、ロンドンにいたバレエ・リュスの興行主ディアギレフ(1872~1929)と連絡を取り委嘱される。前年はストラヴィンスキー(1882~1971)がバレエ音楽「春の祭典」で世界に多大なる衝撃を与えた年だったので完成した作品もそれに近いものとなったが再びディアギレフにそれを見せると春の祭典と同じような作品だったので上演は取りやめに。結果、4つの組曲にまとめた。これがスキタイ組曲。

1918年ロシア革命が勃発。革命の騒動が収まるまではロシアを離れよう。
シベリア鉄道でモスクワを発ち極東ウラジオストクから船でアメリカ行きを決断、ところが燃料が足りず日本経由となる。また南米行き船便を逃したため2か月後の北米行き船便を待つことに。結果8月までの日本滞在となるが、5月31日敦賀港に上陸、翌日東京に到着。11日まで滞在するが12~18日まで京都に滞在。祇園などを散策。13日には大阪も訪れる。19~28日奈良県に入り奈良ホテル宿泊。奈良公園で鹿と戯れたりしたことをストラヴィンスキー(1882~1971)に手紙で書き送っている。その後は7月に軽井沢や箱根を散策したり東京と横浜で自作のリサイクルを開催。しかし前衛ゆえに一部の玄人愛好家からしか支持されなかったが大田黒 元雄(1893~1979)という高名な音楽評論家に出会い横浜のホテルを引き払って東京・大森にある大田黒邸の近所のホテルに移り住む。また長旅で作曲や演奏ができないときは小説を書いていたそう(多芸!)「エッフェル塔が動いた」という作品があるらしい。また東京で山田耕筰(1886~1965)に紹介されるが尊敬する作曲家を問われると、そんな人はいないといい。ドビュッシー(1862~1918)はインチキ。シュトラウス(1864~1949)はまあいいだろうといい。困惑させたという。しかしラヴェル(1875~1937)
だけは尊敬していたらしい。
アメリカ滞在 8月サンフランシスコ上陸。ニューヨークでシカゴ歌劇場指揮者カンパニーニ(1860~1919)に出会い、新作オペラの作曲を委嘱されるが完成間近、カンパニーニが急死。オペラ上演は延期となるが1921年にシカゴでオペラ「3つのオレンジへの恋」が上演され大成功を収める。その話をディアギレフも聴き、ピアノ伴奏版を依頼される。しかしその場にいたストラヴィンスキーは第1幕だけを聴き、オペラばかり作曲して時間の浪費をしていると言ってしまう。それに対してプロコフィエフは自身に誤りに対する耐性がないとやり返す。それ以来2人の関係は不和となってしまう。

またこのころヴァイマル共和国でスペイン人歌手カロリナ・コディナ(1897~1989)と結婚。ステージ名はリーナ・リュビエラだそう。1928年ディアギレフからバレエ音楽「放蕩息子」作品46の注文。作品の内容は酒や女に溺れた青年が酔いつぶれ眠っている間に金銭を奪われ身ぐるみをはがされラストは父親に許しを請うもの。翌年作品は大成功するがディアギレフが他界。つまりこのバレエ音楽がディアギレフの中では最後となった(調べてみると2009年にKバレエカンパニーの表記が、あの熊川哲也さんも出演されたようですね)。1932年ソ連政府から新作映画音楽を委嘱、これがキージェ中尉作品60。のちに組曲化。そして1936年キーロフ劇場(マイリンスキー劇場)からバレエ音楽ロメオとジュリエット作品64の委嘱。ところがジュリエットがローレンス神父のすすめで睡眠薬を服用し仮死状態になるシーンでダンサーからこれじゃ踊れないと作曲者にクレームが来ると、君たちに踊りは向いていないと一蹴。このように一方で味方を作り、
一方で敵も作った。
 やっちまったなあ・・・ 
劇場から酷評されたのでまずは第1組曲、第2組曲を発表し、1938年チェコの国立ブルノ劇場で初演(20年前に砺波市文化会館で同バレエ団の公演を観ました)。これが大成功。
さらにモスクワ中央児童劇場から交響的物語「ピーターと狼」作品67。
音楽の教科書に載るほど有名。そして1936年モスクワに拠点を移す。このころ映画監督エイゼンシュタイン(1898~1948)に出会い、映画音楽「アレクサンドル・ネフスキー」作品78を作曲。
見事成功を収めるが録音状態が粗悪だったために後にメゾソプラノ、混声合唱と管弦楽によるカンタータに改作(シャンドス版CD持ってます)。またこのころピアノソナタ第6番作品82、第7番作品83、第8番作品84、いわゆる戦争ソナタを作曲(ただぼくは第4番作品29が好き)。生涯にわたってピアノソナタを作り続けた珍しい人でもある。
左利きだった
その後キーロフ劇場から2作目のバレエ音楽を委嘱、これがシンデレラ作品87。そして1941年ドイツのヒトラーが独ソ不可侵条約を破棄しソ連に攻め込む事態を知り、政治には無関心だったプロコフィエフだが急に祖国愛に目覚め自分も何か祖国に貢献できることは、と考え書いた作品が交響曲第5番変ロ長調作品100である。ピアノスケッチは1か月、オーケストレーションも1か月という異例の速さで完成。1945年1月に作曲者自身の指揮で初演、見事大成功。しかしこの後に慢性の高血圧で階段で滑り転倒。上り坂、下り坂、そしてまさかである。以後慢性の脳震盪と闘病することに。そういえばあのラヴェルも晩年は脳震盪との闘いだった。かくして両天才の末路は皮肉にも同じだった。

かつての栄光は陰りを見せ始め、ソ連政府の社会主義リアリズムという芸術家への厳しい弾圧により作品の出版禁止、演奏禁止により借金を抱えながら、タイトルマッチを争うほどのチェスもやめてまた病状の進行により医師からは作曲時間も1時間に制限されるなど失意のどん底を味わったが、交響曲第6番変ホ短調作品111を書いたりチェリスト・指揮者のロストロポーヴィチ(1927~2007)のために書いたチェロ・ソナタ作品119を共演したり(20年前にTVで観たロメオとジュリエットの手を指揮台から下りたロストロポーヴィチが重ね合わせるシーンはいまだに覚えている)。そして1952年最後の交響曲第7番嬰ハ短調「青春」作品131を作曲。青少年のラジオ局のために書かれたのでこの名前があるがこの出席が最後となった。
1953年3月5日。プロコフィエフはこの世を去った。享年61歳。奇しくもスターリン(1878~1953)死去と同じ日だった。

またプロコフィエフはイズベスチヤ(ソ連の日刊新聞)にこのようなことを書いている。「われわれが目指す音楽は偉大なる音楽である(中略)それらは何度も聴いたものやつまらないものではなく、単純でわかりやすいものでなくてはならない。」なるほど確かにまるで一度も聴いたことのないメロディを作曲できたシューベルト(1797~1828)に相通じるものがある。そして自身の特徴として聴衆からグロテスクな要素を問われることがあったが古典的な線、近代的な線、トッカータ(モーターの回転を思わせるような機械的な演奏)の線、叙情的な線の4つをあげ、グロテスクを否定している。

プロコフィエフの最大のライバルは同業者ではなく音楽評論家でもなく聴衆だったと思う。最後に

未来のプロコフィエフ

ガブリエル・プロコフィエフ(1975~  )うさぎ年

作曲家 ピアニスト 指揮者 音楽プロデューサー DJ(いわゆるマルチアーティスト)ロンドン在住 主な作品 ターンテーブル協奏曲 バスドラム協奏曲 ベートーヴェンリミックス?経歴と作品名は祖父セルゲイ譲り?やはり飛び跳ねてますね。
CDの販売先 タワーレコード HMV
Twitter Facebookのページあり(申請するも未承認)
5分でわかると言いましたが・・・5分じゃ足りなかったですね。

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